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2020.09.05 REPORT

8・28オンライン講演『千夜千冊の秘密』(本篇/下)

■第二部 千夜千冊は越境する

 

第二部は、宮本武蔵『五輪書』を手に、本来のソーシャル・ディスタンスは自分の内側に、コロナ禍のような有事ではなく平時においてこそつくるものという話から始まった。武蔵はそれを「さかゆる拍子」や「おとろへる拍子」として掴まえ、そこでいかに「渡を越す」か、「瀬戸を渡る」かということを説いた。セイゴオもまた「千夜千冊」を通して、瀬戸際をどう越えるかに挑んできたのだという。

 

ついに千冊を越えたとき、福原義春さんの一声で、「千夜千冊」は真っ赤な全7巻仕立ての全集として求龍堂から出版されることになった。ここからセイゴオは、本と本をどのようにしてつなぐかという次の瀬戸際に向かっていった。

 

もともとダンテが、バルザックが、ゾラが、ジェイムス・ジョイスやフォークナーやガルシア・マルケスが、神話と物語をつなぎ、悲劇と喜劇をつなぎ、関係と関係をつないだ。テキストそのものが織物であってウェブであって、洋服にも空間にも建物にもなりうるものだったのだ。セイゴオの「千夜千冊」もまた、本と本とをつなぐばかりではなく、松丸本舗や近大図書館のような本棚空間へ、さらには角川武蔵野ミュージアムの連想的図書空間へと、網目を複雑化し新しい意匠を産み出しながら越境しつづけてきた。

 

テキストと本は、なぜこんなふうにつながりうるのか。テキストは「記憶」と「想起」を結びつけるものであり、その結び目となる「場所」がやがて書物になった。この結び目を解いていくことが読書、すなわち「読む」という行為なのである。じつは、テキストだけではなく、演劇も絵画もダンスも映画もマンガもデザインも、記憶と想起を多様につないでいる「書物」である。セイゴオもまた、「千夜千冊」を通してこれらの「記憶」と「想起」をつなぐ方法=「アルス・コンビナトリア」に取り組んできたのだ。

 

第二部では、セイゴオの超絶的な編集の数々も紹介しながら、「千夜千冊」の秘密に迫る。

 

福原義春さんのデザインによる求龍堂の真っ赤な千夜千冊全集を開き、セイゴオがどのようにして本と本をつないできたのかを語る。

 

千夜千冊はウェブから本へ、さらには書店にも書架にも集会にも学校にも拡張してきた。画面は配信された映像のスクリーンショット。

 

 L:ライプニッツの「ローギッシュ・マシーネ」にも言及しながら、記憶と想起と場所をつなぐ方法=トピカを板書しながら解説。R:セイゴオの編集工学にとって重要なキーワードである「アルス・コンビナトリア」が大きくプロジェクションされる。

 

 L:即興的に、杉浦康平さんのデザインによる『印』(カイヨワ+森田子龍)を開き、雲母のように輝く文字を見せる。R:セイゴオの「越境」をいつも支援して演出してくれた故き藤本晴美さんを紹介。

 

 

■第三部 編集的世界観

 

第三部では、これまで刊行された全17冊の「千夜千冊エディション」を並べたテーブルを前に、ソファに座りながらの語りが展開していく。求龍堂版の全集とはカットアップの方法をまったく変えて「エディション」を編み続けているセイゴオは、つねづね「かつての作品を新しいアレンジで再編集し、アルバムにしたりリサイタルをしたりするような感じに近い」と言ってきた。「エディション」とはまさにそのようにして、時代に合わせた新たなキュレーションで情報を提示していくこと、「to give out」しながらアルス・コンビナトリアの可能性を次々に示すことであるとセイゴオは語る。

 

たとえば『文明の奥と底』では一神教世界が組み立てた文明の奥の「世の初めに隠されたこと」や「アーリア主義」をクローズアップし、『大アジア』では近代日本がアジアの何を読み違えたのかを見つめ直した。『宇宙と素粒子』では、文明ばかりではなく科学もまた、方法を取り違え間違いをおかしてきたことを指摘した。一方、そのような「間違い」に対抗する方法を提示するように、『面影日本』ではレミニッセンスに長けた日本の独自の面影再生法を、『編集力』では「類似と相似」の発見が編集の根本であることを強調した。

 

セイゴオが「千夜千冊エディション」で探究していることにはもうひとつ、「情報と生命の関係」をどう見るかということがある。『情報生命』を手に、この日のトークを締めくくる情報編集の歴史のおおもとの話を語り始める。

 

なぜ、エントロピーが増大し熱死に向かっていく宇宙のなかで、地球に生まれた生命だけが「負のエントロピー」を食べ、情報を転写しながら生命圏を育んでいくことができたのか。そこには、生命が誕生して最初につくられた「細胞膜」が、「内」と「外」を分けることで「界」をつくったことが大きく関係していた。さらには、RNAが外側から生命にかかわり、内側のDNAとともに「情報生命」を形成していったことも大きかった。

いまわれわれをとりまいているウイルスの問題も、この情報生命の歴史の潮流のなかにあるのだ。

 

第三部冒頭で、帝京大学図書館のために制作した「読書服」と、セイゴオのコンセプトやキーワードが刺繍されたスタジャンを披露。いずれもニューヨーク在住のデザイナー川西遼平氏によるもの。

 

ソファに腰を下ろし、「千夜千冊エディション」全17冊を次々と手にとりながら、セイゴオの「アルス・コンビナトリア」を高速で語る。写真はオンライン配信された映像より。

 

感染対策として設置されたアクリル板に板書しながら、「エディション」に込めてきた方法論を解説する。外なるソーシャル・ディスタンスに苦言を呈してきたセイゴオならではのシーン。

 

L:終了予定時間を超過しはじめていたが、セイゴオとスタッフの集中力によって現場の空気は異様なほどの密度を保ち続けていた。R:手書きのカンペを次々繰り出して、プロンプターのようにセイゴオのシナリオをナビゲーションする和泉。

 

予定していたシナリオ以上にアクロバティックなライブ編集によって、時間切れをものともせずに「千夜千冊」語りを完遂しようとするセイゴオ。

 

 

■エピローグ

 

第三部からそのままエピローグへと入り、ここでセイゴオは「只今、本族、出張中」と書いた板切れを抱えて、再び本の群れの中に立つ。「われわれはみんな情報本族である」。この時間を現場で共有しているゲストやスタッフ、オンラインの向こうで見守っている視聴者に語りかけるような、セイゴオのラストメッセージ。

 

「ほんと」と「つもり」の区別はつかない。これはピーターパンが訴えていたことであり、セイゴオが『擬』に込めたことである。じつは生命も情報も、もともと「ほんと」と「つもり」を区別しないことによって成り立ってきた。フェイクがはびこっているいまの時代においてこそ、本族は「ほんと」と「つもり」の瀬戸際に向かっていくべきである。

 

会場後方に置かれた丸テーブルに歩み、昭和のはじめを生きた一人の青年の話を語り出す。青年は兄弟ともども重病に冒され、つねにタナトスの不安と時代社会状況の暗さを抱え続けた。あるとき、京都寺町の八百屋でレモン一個を買い、いつも立ち寄る丸善の書棚にそっと置いて立ち去った――。

 

梶井基次郎の『檸檬』を取り上げ、冒頭で紹介された丸善の「鐙」の字に重ねながら、3時間半にわたったセイゴオ・トークは締めくくられた。

 

「本族、出張中」の板切れは、ふだんイシス館の本楼入り口に懸けられているもの。セイゴオみずから彫った文字である。写真はオンライン配信された映像より。

 

ポケットに忍ばせたレモンを取り出し、梶井基次郎と丸善のエピソードに、この日の「つもり」のすべてを預けて、トークを締めくくる。

 

L:会場で一部始終を見守ったゲストの拍手を浴びるセイゴオ。ネットの向こうで見守っていた1000人近くの視聴者の拍手は感じていただろうか。R:ラストシーンで赤い灯りに照らされる「鐙」の字。

 

破格のオンライントークをともに組み立てつくりあげた全スタッフとの記念撮影。背景にはここにいるスタッフの多くがいまも「師」と仰ぐ、藤本晴美さんとセイゴオの写真。

 

 

〇関連レポート

イシス編集学校析匠・小倉加奈子さんによる日本一早い視聴レポート

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本講演の公式記録カメラマン・後藤由加里さんによるフォトレポート

https://edist.isis.ne.jp/list/senya_himitsu_10shot/

本講演の公式映像カメラマン・林朝恵さんによるムービー付きレポート

https://edist.isis.ne.jp/post/matsuoka_movie_senya_himitsu/