沿革
1982設立。事務所は港区元麻布2丁目のマンション。
おもな仕事は、講談社『アート・ジャパネスク』(全18巻)編集、第一法規『日本の組織』(全16巻)、筑波科学博ベンチャーパビリオン「テクノコスモス館」企画、NTT情報文化研究フォーラムなど。
この時代、松岡は事務所スタッフとともに職住・研究活動一体型のワークスタイルをとっていた。
1987編集工学研究所設立(渋谷恭子代表)。以降、松岡正剛事務所は松岡正剛のマネジメントおよび編集工学研究所のヘッドオフィスとなる。
おもな仕事は、福岡ダイエーホークスCI計画、『情報の歴史』編集、富山県・淡路島・芦屋などの活性化計画、東京テレビ「極める」企画など。
年末行事M’sパーティが恒例となり「東京一不思議な顔ぶれが集うパーティ」として知られるようになる。
1990編集工学研究所とともに事務所を目黒区青葉台1丁目に移転。
おもな仕事は、リクルートワーキングデザイン研究会および『レジュメックス』編集、阪急電鉄文化プロジェクト監修、資生堂幹部研修会、平安遷都1200年記念「伝統と創生フォーラム」構成、岡崎市「マインドスケープミュージアム」企画、岐阜県「オリベプロジェクト」企画、CBC「ときの探訪」企画、密教21フォーラム「空海プロジェクト」企画監修など。
ホンダ技術者との研究会をきっかけに、社用車が「レジェンド」になる。
松岡正剛のコアファンのための「未詳倶楽部」を創設、以降年間数回の秘密の「例會」を全国各地で謎のゲストたちを招いて開催している。
1999編集工学研究所とともに事務所を港区赤坂7丁目に移転。
松岡正剛の「千夜千冊」連載および「イシス編集学校」創設をサポートしつつ(ともに2000~)、そのほかおもな仕事として、松岡正剛の日本文化塾「連塾」マネジメント、「ZENetic Computer」共同開発、立正佼成会「開祖記念館」企画構成、平城遷都1300年記念「NARASIAプロジェクト」総合監修および企画構成、丸善丸の内本店「松丸本舗」企画構成など。
松岡正剛が初めて職住一体・イヌネコ共生型のワークスタイルを変えて、自宅から事務所に通勤し始める。社用車がホンダ「アコード」に変わる。
松岡正剛が胃癌を宣告され、事務所をあげて入院手術をサポート、無事に完治しことなきを得る。
2012編集工学研究所とともに事務所を世田谷区赤堤2丁目に移転。
おもな仕事は、ネットワン・システムズCI計画および「縁座」企画構成、日本財団ハンセン病編集プロジェクト企画構成、ミツカン「酢の力」CM企画構成、近畿大学アカデミックシアター企画構成および監修など。
編集工学研究所とともに、自前のイベントスペース「本楼」を拠点として新しい企画および活動を展開、そのひとつとして、今井秀実氏を師匠に松岡正剛および事務所スタッフ全員で、呉式太極拳を習い始める。
松岡正剛が肺癌を宣告され、またしても事務所をあげて入院手術をサポート、無事に完治しことなきを得る。
写真
川本聖哉 SEIYA KAWAMOTO
佐々木友一 TOMOKAZU SASAKI
戸澤裕司 YUJI TOZAWA
デザイン
佐伯亮介 RYOSUKE SAIKI